釜石からの報告

  • 2012.12.21 Friday
  • 18:51

12月7日に釜石東中学校へ派遣された新城市立千郷中学校の5名の報告会があり、同窓会役員として参列しました。

当日のブログでも緊迫した様子を書かさせて頂いたように、生徒達は震度5弱の地震に遭遇し、津波警報のもと避難所へ逃げるという経験をすることになってしまいました。


(千郷中学校での発表会)

警報は、2時間後に解除され、生徒達は、安全な避難住宅にとめてもらい無事に帰ってきました。

今日は、全員の元気な顔を見れてほっとしました。

報告の中では、彼ら彼女らの中に大きな教訓が焼き付けられたように思えました。

・市役所の職員の方が常の避難所としていた防災センターが、津波に飲み込まれ200人もの命が失われたことに、ずっと後悔しているとのこと

・釜石の奇跡といわれ、その時に助かった子が今回迎えてくれたことの現実。もしその一瞬のことで目の前の友達がいなかったかもしれない。

「生きてさえいれば、それでいい。」と中学生が言う心からのその言葉に涙がでました。

戦後、我々は平和な新しい世の中をつくろうと努力してきたようび、震災後、多くの尊い命が失われたことへ少しでも報いるように、社会の仕組みを変えていかなければならないと思います。

なお、詳しい内容は、次の千郷中学校のホームページをご覧下さい。

http://www.city.shinshiro.ed.jp/chisato-jh/


暖かくしてね

  • 2012.12.07 Friday
  • 21:55
先おとといのブログに記したように、母校千郷中学校から釜石東中学校へ5名の生徒を派遣しました。私は、同窓会副会長として壮行会にも出席しました。

そして、今日午後5時20分ごろ、埼玉に住んでいる娘からLINEで地震の一報を受け、仕事場にあったラジオをつけると大きな地震が発生したとのことで、すぐに頭に浮かんだのが千郷中学校の子供たちのこと。

とりあえず千郷中学校へ駆け付け5時45分、校長室のテレビをみると津波警報が出ていました。

その後、現地の引率の先生から逐次連絡が入りました。

地震発生5時18分には、子供たちは釜石東中学校にいて、大きな揺れを感じたとのことですが全員無事とのこと。

新城の子は比較的冷静でしたが、現地の子は以前の恐怖を思い出したのかパニックを起こし、泣きじゃくる様子もあったとのことです。

その後、津波の心配があったので、とりあえず急ぎ高台に避難し、最終的には避難所である栗林小学校に全員無事に避難したとのことです。毛布なども支給されているとのことです。

親御さんとも連絡がとれ、その後津波警報も解除され、落ち着きを取り戻せたとの報告を受け、私も一安心で校長室を出ました。

午後8時半ごろ、外の風はとっても寒い。釜石はもっともっと寒いはず、親元から離れ寒い避難所で一夜を明かすことになって、どんなに心細いことでしょう。がんばれ!

さらには、被災地で2回目の冬を迎えても、未だに仮設住宅にお住いの方々など避難生活をおくられている方々の心中を察すると言葉に詰まります。

心から応援します。暖かくして、風邪をひかないようにご自愛ください。

(追記)
小西校長先生からのご連絡によりますと、避難所泊ではなく予定の宿泊先に入れたようです。安心しました。







釜石東中学校へ千郷中から

  • 2012.12.04 Tuesday
  • 11:20
愛知県新城市の千郷(ちさと)中学校の生徒会5名は、今週金曜・土曜に、岩手県釜石市の釜石東中学校との交流のために向かいます。

その壮行会が3日に千郷中体育館で行われました。私は、同窓会副会長として参加させて頂きました。



この交流は、震災直後、千郷中学校第37回卒業生の三浦寛行氏が、瓦礫の中から「釜石東中学校」という木の縦看板をみつけて届けたことに端を発します。

そこからが三浦さんのすごいところ、母校千郷中に交流と支援を呼びかけたのです。

また、千郷中もすごい! 文化祭で復興支援のアルミ缶アートをつくり、その売却金を支援金として届けたりして、積極的に交流を進めました。

アルミ缶を集めるときは、ご家庭はもとより、地域の店舗が協力して頂き、地域ぐるみの支援の輪が広がりました。

こういったボランティア活動に子供たちが関わることの意義は、計り知れないものがあります。

そして、千郷中学校同窓会も応援させてもらおうと、今回、5名の生徒を釜石に派遣する資金援助をすることとなりました。

仮設住宅へ民泊したり、クラブ活動に参加したり、貴重な体験をする生徒たちがどのような感想を持ち帰ってくれるのでしょうか。

私も郡山市〜松島〜陸前高田〜気仙沼を訪れ、山田町の知り合いに話を聞きました。

遠く離れた私たちが、心しなければならないことは、被災地のことを忘れないことだと思います。

その意味でも、この時期に新城市の中学生が改めて今の被災地へ出向くことはとても意義あることです。

震災を風化させないで

  • 2012.08.05 Sunday
  • 23:13

震災の風化を感じる、そんな言葉を聞きました。

それは、今日再会を果たした岩手県山田町の寅丸水産、上林さんからでした。

そのときから1年5か月、実際はどうなんだろう、彼は現地の本音が聞ける知り合いです。

海の幸に恵まれた美しい町、山田町は、津波で壊滅な被害を受けました。

家も船も流された上林さんですが、野球大好きな小学校のお子さんと元気一杯の奥様とで頑張っています。

キャンピングカーにトレーラーをつけ、毎月第1日曜日の雫石の軽トラ市には欠かさず出店しています。

今日は、その軽トラ市を手伝いながら、半日、本音の話しをいろいろと語り合いました。

・国の支援は、末端には行き届いていないと感じる。

 大きな団体に属しないと補助などが受けれない場合があり、漁師のプライドというものをわかっていない気がする。

・線路もない踏切で、一旦停止の取り締まりをやって、地元民が何人も捕まっているそうです。違反は違反ということでしょうが、何か順序が違う気がするとのこと。

・今でも、手や足だけの遺体を確認した時のことが思い出され、精神的には本当の笑顔がでる状況でないとのこと。

・生活再建ついては、まったく先の見えない状況が続いている。今欲しいのは、再建資金としての現金である。

 昨年の3.11、そして、その5月1日に激励のために雫石軽トラ市に来て、そこで出合って1年半。今度の軽トラ市では、寅丸さんからたくさん買って帰ろうと思いましたが、寅丸さん自身の商品は、牡蠣野の味噌漬けだけでした。

遠く離れた愛知県にいると、震災のことを考えない日が何日もあったように思います。

しかし、現地の方々は、何も改善はなく復興どころか片付けですら間々ならず、ましてや精神的には、不安は増しているように思いました。

国会の議論は、線路も無い踏み切りで一時停止を取り締まるのと同じで、本末転倒のことをやっているようにしか見えないでしょう。



軽トラ市も終わりかけのとき、突然、上林さんが震災後ずっと大事にし、軽トラ市で看板代わりの掲げていた、ガラスのウキを私に持っ行けいうのです。

びっくりしました。

津波で全てを失い、そもなかで数少ない思い出の品の一つを私に譲るということの気持ちに感激しました。




流がされず潰されず、しぶとく残った縁起物です。

これを見てこれからも頑張って行こうと思います。




被災地を訪ねて

  • 2011.12.25 Sunday
  • 23:59
福島県郡山市の母校を訪ねた後、東日本大震災の被災地に向かいました。

正直言って行ってよいものか迷いました。

復興作業の邪魔になるのではないか、物見遊山では申し訳ない、そんな思いがありました。

しかし、この未曾有の災害を遠くで報道で知るだけで良いのか、行かない理由を作っているだけでないかと様々思いの中、行って来ました。

場所は、宮城県松島〜南三陸町〜気仙沼を車で回りました。愛知県新城市から800kmの地です。

松島は、昨年7月に仲間と観光で訪れましたが、今日の松島は、フェリーが昔と同じようにみられてホッとしました。

観光客も思ったより大勢いました。

有料駐車場の方ともお話しをすると、周辺の建物は、全て津波の被害を受け廃業するお店もあるが皆頑張っているとのことでした。

「もっと大きな被害を受けたところに比べれば文句は言えない」との言葉が心に残りました。

焼牡蠣のお店に入って、目の前の海でとれた熱々の牡蛎をおいしく頂きました。


(松島の遊覧船)

一見元に戻ったかのように見えましたが、海に近づくと地盤沈下のために海水があふれ出ていました。40cmも地盤沈下したとのことです。

(松島の港の様子。地盤沈下のために満潮時には海水が溢れます。)

松島から国道45号で1時間ほど、南三陸町に着きました。

南三陸町の状況は、想像を絶するものでした。形容詞が見つかりません。形容するものは、全て津波に奪われてしまっていました。

そこには生き残った人達の故郷への思いが瓦礫の中に、双葉が芽を出すように見え隠れしていました。


(よみがえれ故郷。ふんばれ 南三陸町の文字)

ガソリンスタンドも営業していて、そこで給油し、そこから気仙沼へ向かいました。

お土産物屋さんが何件かあり、ふかひれラーメンをお土産に買いました。

こうして商店が私たち外来者を待っていてくれたことは、来て良かったと思わせてもらえることになり、本当にありがたく思いました。

ふかひれスープも買いましたよ。


(がれきが詰まれた気仙沼街道の沿道)

日の入りも早く、寒さも厳しくなり、復興を支える人たちには暖かい日の光が注いで欲しいと思いました。

・・・
今日被災地を訪れてみて思ったことは、『無』です。頭で考えることでは何も追いつかないとてつもない現実であるということです。

遠く離れた所での考えでは、この震災に何教訓がある、意味を見出して心もちに何らかの清算を付けたいという思いがありましたが、現地に来て思うのには、意味など何もない、そこには何もないといういうことでした。

むなしさを感じるものすら何もないという感じでした。ほんの一時、訪れただけの私がそう思うのですから、ここでこれからも生活していく人達の心労はいかばかりかと思います。

ガソリンを入れたお店の人、有料駐車場の奥さん、お土産物屋さんの若い方々、みなさんとお話しをしました。よくお話しをしてくれました。

こうして直接に話し、商売を活性化することが大切なことのひとつなのだと感じました。




震災見舞い

  • 2011.12.24 Saturday
  • 23:59
我が母校、日本大学工学部は、福島県郡山市にあります。

東日本大震災以降ずっと母校やお世話になった方々にお見舞いを言いたく、できたら訪ねていきたかったのですが果たせず来ました。

今回、娘宅のある埼玉まで来たついでに思い切って訪ねることにしました。

昨日は、午前中に合唱の練習をして、東北地方は大雪だというのでスタッドレスタイヤをはめ替えて、午後1時に愛知県新城市を車で出発しました。

孫を休め休め運転し、途中おっぱい休憩をとりながら6時間かけて埼玉県和光市まで行き、荷物を降ろしてすぐに新幹線那須塩原駅近くのビジネスホテルに午後11時ごろ入り宿泊しました。

そして今朝7時に那須を出発、8時15分に福島県郡山市の母校に着きました。

30年ぶりに訪れた母校は、昔の面影をほとんど残していました。

正門からの桜並木も昔のままでした。


(正門から学生棟を臨む)

そして奇跡的なことが起こりました。

駄目で元々と、守衛さんに研究室で世話になった恩師がみえるか聞いてみたところ、ちょうど9時からの来客を待って研究室にみえるとの返事でした。

まったく連絡もせず来たのになんという幸運でしょう。また、その場所が昔の研究室のままなのには、またもやびっくり。


(橋梁研究室のある建物)

さっそく恩師を訪ね再会を果たし、積もる話しをして、当時よく入れてもらったインスタントコーヒーを飲みながら15分ほど不思議な時間を過ごしました。

震災時には、学生棟の窓ガラスが全部割れたり、壁にひびが入ったり、被害はあったそうですが、大学についてはもうすべて復旧しているそうです。

ひとまず安心して懐かしい学び舎を去りました。

その後、学生時代のアパートが見つかるか、これもダメモトで探しに行きました。

30分ぐらい車でぐるぐる探しまわる内に、町の様子は大きく変わってしまい諦めかけたとき、これも奇跡的にみつけました。

アパートは、30年前当時のまま建っていました。


(後の四角い2階建て4戸のアパート)

奥の2階に青春時代の4年間、暮らしていました。ついでに家庭教師をやっていた喫茶店やコロッケをよくおまけしてもらった肉屋さんが未だにありました。

感激の連続の日になりました。

東日本支援の購買活動

  • 2011.12.19 Monday
  • 22:10
新城市ボランティア連絡協議会は、東日本大震災の復興支援として、東北の物産品の購買促進を行っており、私にも斡旋がありました。

そこで、私は、岩手の「南部せんべい」を購入しました。

ご存知ですか、あのさっぱりとした薄塩味にゴマや豆の入ったおせんべいです。

(南部せんべい各種)

今度のしんしろ軽トラ市で売ろうとたくさん買いましたが、知り合いに試食させるうちに皆大変おいしいと、あっという間に写真のものしか残っていません。

日本三大軽トラ市、ご当地菓子対決!
・宮崎県川南からは、かりんとう
・岩手県雫石からは、南部せんべい
・愛知県新城市からは、瓦せんべい
  ・・・というのはいかがでしょうか。

震災後半年

  • 2011.09.11 Sunday
  • 23:27

今日で東日本大震災から半年が経ちました。改めて犠牲となった方々のご冥福をお祈りいたします。

この震災は、教訓とするにはあまりにも大きな代償です。

気持ちの整理などつかぬままの6ヶ月、世界中の人々が様々なことを思い悩んでいるように感じます。

昨日もNHKのある番組では、アメリカの出演者が原子力発電を必要なものといいながら、自分の近くでの建設には反対という意見がありました。

また、貧しい地域が富んだ地域からお金をもらって原発の立地を容認することは不公平かという質問がされていました。そこにも賛否両論ありました。

「倫理」に関わる大変に難しい問題として結論付けられる中、最後にあげられた問題提議として「例え、お金でリスクを回避したとしても、その責任は元に残る」ということを忘れてはならないと言われました。

国民すべてが原発の問題では何らかの責任を感じなければなりません。

責任を感じた証拠として何らかの行動を見せなければなりません。

その行動は、こうしたブログでもいいし、会話でもいいし、投書でも何でもいいと思います。

そういう行動こそが問題解決への第一歩であり、こういう善い環境をつくる努力を怠るとTVでとんでもないテロップが出たり、信じられない発言をする大臣が生まれたりするのだと思います。

震災から半年、今生かされている者の一人という自覚で生きたい、と決意を新たにしました。

長野へ震災激励

  • 2011.09.03 Saturday
  • 22:48

3月12日午前3時59分ごろ、長野県北部で震度6強の地震がありました。

多くの方はあまり記憶がないかと思いますが、今もその被害の爪痕は残っています。

特に経済活動においては、尾を引いています。

野沢温泉には「おばたけ」という宿があり、以前にお世話になりました。

野沢温泉村でもリフトが壊れたりと大きな被害があったそうです。

そこで、少しでも激励になればということで、フォークの有志でライブを開く計画を立て今日来ました。

来ましたということで、今は、長野県下高井郡野沢温泉村大字前坂8399のお宿「おばたけ」にいます。

台風が過ぎるのを待って昼に新城を出て、6時間、午後7時ごろに到着しました。夕食後準備して、明日午後1時からライブで、その後また6時間かけて帰ります。

温泉に入っている暇があるかどうか微妙ですが、世話になった方が元気になるのであれば進んで苦労するのが人の道だと思います。

(お宿「おばたけ」での練習の様子)

小さな場所でのライブでも大きな場所と機材などはそんなに変わりません。
逆に小さい場所の方が難しいものです。

あすは、いい音楽をここ野沢温泉郷に響きかせたいと思います。

夏の日は駆け足

  • 2011.08.17 Wednesday
  • 23:48
1945年(昭和20年)8月6日 ・・・ 広島に原爆投下

1945年(昭和20年)8月9日 ・・・ 長崎に原爆投下

1945年(昭和20年)8月15日 ・・・ 終戦記念日

この時期は、戦争と平和を考える機会が多いですが、夏はあっという間に過ぎ、送り火が焚かれて翌日17日になり、帰省からもどり仕事が始まると、あっという間に忘却の彼方です。

戦争と平和、つまり「命を考えること」は、忘れることなく日々の判断の基礎としなければならないと思います。

そして、東日本大震災2011.3.11後の原子力被害も風化させてはならないものです。

風化させないためには、子ども達への教育が大事。これからの教科書にどんな風に載せてくるのでしょうか。

「核の平和利用」という言葉を作った恐ろしさは、原爆をつくったことに匹敵します。

「殺人の平和利用(=戦争)」と同意です。

いろいろな思いが色濃いうちに、体の中の忘れない場所に入れておきたい大切なことです。

・・・夜になって、虫の鳴き声を聞き、そんな事を思いました。

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